IVORY

Fictions

隅の方

 多分、そんな意識することでもないけど、部屋の隅の方に気が溜まっているような気がしていて、寝て起きてふと目をやると、隅の方に「あ、気が溜まってるな」と思う。
 その気が何なのかとかあまり深く考えたことはない。自分の中から漏れ出したものなんだろうと思うんだけど、その隅の方にあるものはなんだかばっちいものであるような気がして、「自分」って感じもしないし、要するに髪の毛みたいなもんだ。髪の毛だって自分の頭にあるときならば「自分」の一部であると思うけれども、落ちて床の一部になっているところを見たらちょっと気持ち悪く思うだけだし。
 起きて顔を洗ってコーヒーを淹れる。朝の二十分は本当このためだけの時間で、飲んでいる間に私は隅の方にあった気のことなんか忘れてしまっているのだけれども、今日その日だけはちょっと違う。家を出て数分して、家の中にあったあの気のことが気がかりになっている。これが本当の気がかり!とかそんな馬鹿なことを考えている間ももったいないくらいに私は部屋の隅を思い返している。
 ちょっと前まで家にいたはずなのに、うまくイメージできない——それは私の中から気が出て行ってしまったからなのだろうか?
 私は家に戻ることにする。会社用のボールペンを持っていくのを忘れた、ということにする。別に会社用のボールペンなんて何でもいいし、そもそも私は家にも会社にも同じボールペンを置いていて、どっちでもいいはずなのだ。けれども、そういうことにして自分を納得させる口実を自分自身に対してする。
 鍵を開けて、部屋の隅を見る。
 もう気はいない。

大丈夫

 裕美が泣いている。

 真夜中の午前三時、裕美の泣き声で僕は目を覚ます。加那子はどこだろうと暗闇で気配を探るが、この部屋にはいない。また泣いてるんだろうと僕はいったん加那子のことは脇に追いやる。

 裕美の泣き声が激しくなってきたので、ティファールで湯を沸かし、七十度のお湯を作る。ミルクを作っている間、僕は裕美を抱っこしてあやしている。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……」

 子どもの頃、母親がよく言っていた。僕や僕の弟が道で転んで、膝小僧に擦り傷を負って泣いていたとき、母親はなだめるために「大丈夫」を繰り返した。今になって思うと、この言葉の向けられている先は、泣いている本人に対してというよりも、言葉を発する自身に向けられていたのかもしれない、と思う。

 大丈夫を何度繰り返したのか、ティファールのお湯が沸いて、裕美をバウンサーに乗せて僕はミルクを作る。すり切り一杯二十グラムを数えて八杯。眠い目をこすりながらやっていたのと、その間も裕美はずっと泣いているので、何杯入れたか分からなくなっているのだが、感覚だけは残っている。大丈夫。ちゃんと八杯だ、と。

 粉ミルクを混ぜて、水道で冷やしている間も、裕美は泣いている。母乳が出ないと泣いた加那子は、ノイローゼになってしまってたまにこういう風になってしまうことがある。責めるわけにもいかないし、責めている間も裕美は腹を空かせたと泣き続けている。

 裕美を膝の上に寝かせて、ちょうどいい温度になった哺乳瓶を飲ませてやると、待ってましたと言わんばかりに飲んでいく。彼女の一心に飲んでいく様子は、どんなに疲れていても心が安まる。裕美が生まれてすぐは、抱っこの仕方すら分からなかった僕だったが、今では寝ぼけ眼で暗闇の中、手探りで彼女を抱きかかえ、ミルクを作ることまでできるようになった。

 ミルクを飲ませ、おしっこで重くなったおむつを替えてやると、裕美はふたたび目を閉じ始めたので、僕は裕美が眠るまで抱っこしてやって、ベッドに寝かせる。よかった、いつもはこの後三十分くらい抱っこしなくちゃ寝ない裕美だったが、今日はすっと眠ってくれる。

 哺乳瓶を片づけてミルトンに漬けた後、僕は加那子の部屋に行く。加那子は仮眠用の布団を敷いて、その中でくるまっている。寝息が聞こえるので、泣き疲れて眠ったのだろう。何か言おうと思っていたのだが、彼女がそんな状態なら意味がない。僕は音を立てないように部屋を出る。

 寝室に戻り、裕美がぐっすり眠っているのを確認してから、僕はふたたび布団にくるまる。頭が痺れている。この後、三時間後に僕は起床して、仕事に行き、帰ってきてから裕美をお風呂に入れ、眠るまでの間、裕美の面倒を見ることになっている。目をつむるが、痺れた頭が僕を眠らせてくれない。瞼の裏に、フラッシュバックのようにさまざまなことが映し出される。仕事、昔のこと、母親のこと、今度ある弟の結婚式のこと、僕と加那子の結婚式のこと、結婚式の数週間後に勢いで同僚の西村さんと寝たこと、そのことがきっかけで西村さんと疎遠になってしまったこと、加那子は何かあったことは悟っているが、深く追求してこないこと、裕美が産まれたこと、産まれる一ヶ月前に加那子が転びそうになったこと、破水した後、しばらくの間裕美はお腹から出てこなかったこと、産まれてきたとき僕も加那子も嬉しかったこと、本当に嬉しくて僕は涙を流していたが、加那子は嬉しさと出産の疲労でぐったりとしていたこと、この世にこんなに美しい存在があるのだと知らされたこと……。

 それでも今、そのときの気持ちは少し冷めてきて、変わらず裕美のことは可愛いけれども、加那子のノイローゼが僕たちに緊張を生じさせている。これは乗り越えなきゃいけないんだろうな、と僕は思う。僕も僕で仕事の残業が多く、加那子にかなり負担をかけてしまっているのは事実なのだ。もっと早く家に帰り、もっと育児に積極的に関わっていかなければ、と僕は思う。

 産まれたばかりの頃の裕美は、きっちり三時間おきに目を覚ましてこの世の終わりが訪れたような泣き声で空腹を訴えていたけれど、今は少しずつそれも収まってきて、間隔が延びてきている。たまにいびきすら掻いている裕美を隣に感じながら、僕はゆっくりを夜が明けていくのを待っている。

 僕は小さく呟く。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……」

 やはり僕は思う。この言葉は誰にでもなく、自分自身に向けられた言葉なのだ、と。加那子は明日の朝にまた悲しそうな顔で謝ってきて、自己嫌悪を深めるのかもしれない。けれども、そのときも僕は同じ言葉を繰り返し、そのたびに僕自身の確信を深めていくのだろう。

 小さく言葉を繰り返し、ささやかな祈りを新たにしながら、僕はいつの間にか眠ってしまっている。次は六時頃に裕美が起きるかどうかだ、と眠りながら僕は思う。たぶん、大丈夫だろう。

タスク

 ディスプレイに亀裂が走ったように思えた。しかしそれは私の勘違いで、視界がきらきらと光って、あまりの明るさにきちんと物事が見えなくなってしまったのだった。そうであるだけで、特に実害もない。ディスプレイに恐る恐る触れてみると、かすかに暖かさを感じた。パソコンの稼働音すら聞こえない、人々のかすかなキーボードの打鍵音だけが部屋に響く。

 朝から続いた照会の電話が鳴り止んで、ようやく訪れた静寂だった。隣の同僚は先ほどまでイライラした様子で、何度もお菓子を食べている。私はというと、電話の音が鳴らなくなったタイミングを利用して、お昼に入って帰ってきたばかりだった。どうしてその瞬間に、視界が明るくなってしまったのかは分からないけれども、もしかするとストレスのためなのかもしれない。

 なんかあった?

 私がディスプレイの前でぼけっとしていたので、同僚が声をかけてきた。

 ううん、なんでもない。

 私はログアウトしていたパソコンのカードリーダーに社員証をタッチして、ログインし直す。一日に何度か訪れる認証のタイミング。切断のたびに何かを置き忘れたような気がしてならないけれども、そのたびに新しいタスクが訪れる。

小銃の行方

 詰問の声には慣れていた。やってもいないことをやったことにされ、恫喝なのか命令なのか分からない高圧的な声によって、わたしは決定された。
 ここでは上官の思惑が何にも勝った。死ぬか、殺されるか。選択は意味をなさない。その二択の行き着く先は同じだ。けれども上官は、それがさも温情のように笑うのだった。砂を噛むような思いとはまさにこのことだ、とわたしは思ったが口には出さなかったし、きっと表情にも出さなかっただろう。短絡が尊ばれるそこでは、内容よりもまず形式が優先する。
 そして、わたしは捨て置かれた。撤退を隠すために別の言葉が使われたが、いかにもだと思った。どのみち大した食べ物もないので、痩せ細った我が身は逃げようもない。それにどこに逃げろというのか。
 しかし、わざわざ縄でわたしを縛った上で彼らは逃亡した。蒸し暑く、何度も虫に刺されたが、もはやわたしは生きながらにして屍のような気分だった。
 このまま虫や鳥に啄まれて土に還るのだと、ぼんやり考えていた。自決用、と、それとなく渡された小銃には、わたしがつけた傷があったが、以前にそれを上官に気づかれて殴られたことがある。よく詰まるそれを発砲したことはなかったが、発砲しようとして暴発した者は見たことがあった。
 けれども形式を重んじる上官は、それを見なかったことにしてうやむやにした。その後の処理がどうなったかは分からない。興味もなかった。
 弾が一発だけ込められている、と誰かは言った。自決用なのだから、外さないようにしろと誰かが笑った。
 遠くの方で砲弾の音が聞こえる。密林の中で、奇妙な静けさに包まれたわたしは、その砲弾の音だけを聞いていた。一つ二つと数えて、分からなくなってもう一度初めから数え直す。
 音が近づいてくるにつれて、わたしは終わりを悟った。目をつむり、そのときに備えていた。今か今かと待ったが、急に音は止んだ。わたしは目を開け、しばらくの間、呆然と空を眺めていた。いつからか鳴らすことが無駄だと悟った腹が、ここぞとばかり大合唱を始める。諦めていたはずの生への執着が束の間の砲弾の雨で呼び覚まされていた。
 わたしは血が滲むのも厭わずに縄をほどきにかかった。あれほどしっかり結ばれているように思われた縄は、あっけなく細い腕を通って抜けた。自由になってみると不思議なもので、あれほどこの場から逃げようと切望していた思いがなくなっている。周囲を見渡すと、いくつもの凹凸が砲撃の激しさを物語っていた。
 わたしは歩いた。どこに向かえばいいのかさっぱりだったが、この場に留まることはせっかくの自由を無駄にしてしまうように思われた。砲撃の痕跡がない方向に、ふらふらと歩いていく。握りしめた小銃が、たった一発しかない武器が、最後の頼みの綱だった。
 渓谷に出た。開けた場所に出てしまった瞬間、殺されるとわたしは思った。けれども、弾は飛んでこなかった。
 水の音が懐かしい。上流から掘り起こされた土が混じっているのか、少し濁っていたが、水だった。向かうところもないので、わたしは渓谷の比較的確かな足場を辿って川まで降りていった。水をすくって口元に当ててみる。臭いはしない。少し濁っているが、飲めなくはないようだった。口の中の泥を落とし、血を落とした。汗で汚れた体を拭き、顔に水をつける。冷たかった。この冷たさが、張りつくように暑いこの土地のものには思えなかった。
 身を整えた後、わたしは衣服を探した。ついでにこれを洗ってしまおうと思ったところ、そこに置いてあったはずの衣服がないことに気づいた。誰だ、と声に出そうとして、悲鳴を飲み込んだ。
 男がいた。敵でも味方でもない、男。男は銃剣を取り付けた突撃銃を、わたしに向けていた。銃剣が震えている。明らかに民間人だ、とわたしは思った。幸いにも、彼はまだ小銃の存在には気づいていない。岩の間に隠した小銃は、少し手を伸ばせば届く位置にあった。
 危害を加えるつもりはない、とわたしは言ったが、通じていないようだった。震える銃剣がさらに小刻みに震えるので、わたしはやむなく手を上げた。手を上げると、男の緊張が少し取り払われたのを感じる。わたしはどう見たって痩せ細っており、ただでさえ栄養状態がさほど良いとはいえないこの男よりもなお、小柄な体格をしていた。
 男は何か言った。わたしが反応しないでいると、銃剣を突っつくように突き出すので、仲間がいないかどうか、武器を持っていないかどうかを問うてるのだと思った。わたしは相手を刺激しないように、ゆっくりと片手を下ろして一本だけ指を立てた。武器を持っていないことを示すために、手をピストルの形にし、持っていないことを示す。伝わっているような伝わっていないような逡巡の後、男は不意に後ろを向いた。
 ——わたしはその隙を見逃さなかった。
 岩陰に隠した小銃をわたしは手に取り、男がこちらに向き直る前に発砲した。濡れたそれが発砲するかどうか、そんな不安を抱く暇すらなかった。何としてもこれを撃たなければ、わたしの人生が終わってしまう。焦っていたが、わたしの射撃の腕はさほど悪いわけではない。男はこちらを振り返らないまま、小さくうめき声をあげて倒れてしまった。じわじわと胸から赤いものがこぼれていく。たった一発の銃声が、沈黙を切り裂くように密林の中を伝わったように思えた。鳥が、木々が騒いでいるように感じられる。
 男にはまだ息があったが、とどめを刺す前に誰かが駆けつけてくる恐れがあった。男の持っている銃剣を奪い取り、わたしはその場を立ち去った。わたしの背に向けて、瀕死の男が何かを叫んでいるような気がしたが、振り返る余裕などなかった。
 そこからの顛末をどのように語ればいいのか、わたしには上手い語句を持ち合わせていない。わたしは密林の中を彷徨い続けた。ときおり猿が嘲るようにわたしの前に現れ、そのたびにあの男から奪った銃剣で刺し殺していった。絶命を迎えるたびに、猿は口汚くわたしを罵るための叫び声を上げた。突撃銃には数発の銃弾があったが、怖くて発砲することはできなかった。今やわたしには明確に恐怖があった。日に日にそれが形を整えていき、わたしの背中を押すのだった。夜の闇に紛れて息を殺している間、わたしはあの男の末期を考えた。彼はいつまで生きたのだろうか、と。誰か仲間がやってきたのだろうか。すべてを撃ちきったあの小銃は、慌てていたためにその場に置き忘れてしまったが、あの小銃を見てあの男の家族は、子はわたしを恨むのだろうか。幻影のようなとりとめのない思いがつらつらと浮かんでは消え、わたしの睡眠を妨げた。
 状況が変わったのは、ふたたび砲撃の雨が降ったからだった。その執拗な爆撃に、わたしはたちまちに混乱に陥った。はじめは散発的に海から撃たれる砲撃が、この密林の重層的な土壌を抉っているだけだった。しかし、数十分もするとそれはスコールのような雨に変わった。あまりの音の激しさに、わたしは正常な判断力を失っていた。
 逃げ惑っているうちに、わたしの近くに着弾した。瞬間、わたしは吹っ飛ばされ、何か堅いものにぶつかった。そこでわたしの意識は一時的に完全に途絶えたのだった。
 目覚めると、わたしは野戦病院にいた。お世辞にも病院とは言いがたい不衛生な環境で、そこら中で蠅が飛び、患者たちの生命を吸い取っている。ふらふらとわたしは起き上がろうとしたが、背中に激痛が走った。衛生兵が駆け回っている。動けないことは分かったが、ここはどこなのかは分からなかった。何度か医者のような男がやってきて、わたしの状態を見ていった。それは文字通り見ただけで、そのまま医者らしき男は何やら指示を出してわたしを担架に乗せた。乱暴な手つきに、わたしは何度も悲鳴を上げたが、そんなものはお構いなしとばりに投げ飛ばされるようにわたしは別に場所に移動したのだった。
 それがわたしの国へ帰る経緯だ。ご存じのとおり、わたしの国は戦争に敗れることになったが、わたしは敗戦を生き延びることになった。