IVORY

Fictions

大丈夫

 裕美が泣いている。

 真夜中の午前三時、裕美の泣き声で僕は目を覚ます。加那子はどこだろうと暗闇で気配を探るが、この部屋にはいない。また泣いてるんだろうと僕はいったん加那子のことは脇に追いやる。

 裕美の泣き声が激しくなってきたので、ティファールで湯を沸かし、七十度のお湯を作る。ミルクを作っている間、僕は裕美を抱っこしてあやしている。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……」

 子どもの頃、母親がよく言っていた。僕や僕の弟が道で転んで、膝小僧に擦り傷を負って泣いていたとき、母親はなだめるために「大丈夫」を繰り返した。今になって思うと、この言葉の向けられている先は、泣いている本人に対してというよりも、言葉を発する自身に向けられていたのかもしれない、と思う。

 大丈夫を何度繰り返したのか、ティファールのお湯が沸いて、裕美をバウンサーに乗せて僕はミルクを作る。すり切り一杯二十グラムを数えて八杯。眠い目をこすりながらやっていたのと、その間も裕美はずっと泣いているので、何杯入れたか分からなくなっているのだが、感覚だけは残っている。大丈夫。ちゃんと八杯だ、と。

 粉ミルクを混ぜて、水道で冷やしている間も、裕美は泣いている。母乳が出ないと泣いた加那子は、ノイローゼになってしまってたまにこういう風になってしまうことがある。責めるわけにもいかないし、責めている間も裕美は腹を空かせたと泣き続けている。

 裕美を膝の上に寝かせて、ちょうどいい温度になった哺乳瓶を飲ませてやると、待ってましたと言わんばかりに飲んでいく。彼女の一心に飲んでいく様子は、どんなに疲れていても心が安まる。裕美が生まれてすぐは、抱っこの仕方すら分からなかった僕だったが、今では寝ぼけ眼で暗闇の中、手探りで彼女を抱きかかえ、ミルクを作ることまでできるようになった。

 ミルクを飲ませ、おしっこで重くなったおむつを替えてやると、裕美はふたたび目を閉じ始めたので、僕は裕美が眠るまで抱っこしてやって、ベッドに寝かせる。よかった、いつもはこの後三十分くらい抱っこしなくちゃ寝ない裕美だったが、今日はすっと眠ってくれる。

 哺乳瓶を片づけてミルトンに漬けた後、僕は加那子の部屋に行く。加那子は仮眠用の布団を敷いて、その中でくるまっている。寝息が聞こえるので、泣き疲れて眠ったのだろう。何か言おうと思っていたのだが、彼女がそんな状態なら意味がない。僕は音を立てないように部屋を出る。

 寝室に戻り、裕美がぐっすり眠っているのを確認してから、僕はふたたび布団にくるまる。頭が痺れている。この後、三時間後に僕は起床して、仕事に行き、帰ってきてから裕美をお風呂に入れ、眠るまでの間、裕美の面倒を見ることになっている。目をつむるが、痺れた頭が僕を眠らせてくれない。瞼の裏に、フラッシュバックのようにさまざまなことが映し出される。仕事、昔のこと、母親のこと、今度ある弟の結婚式のこと、僕と加那子の結婚式のこと、結婚式の数週間後に勢いで同僚の西村さんと寝たこと、そのことがきっかけで西村さんと疎遠になってしまったこと、加那子は何かあったことは悟っているが、深く追求してこないこと、裕美が産まれたこと、産まれる一ヶ月前に加那子が転びそうになったこと、破水した後、しばらくの間裕美はお腹から出てこなかったこと、産まれてきたとき僕も加那子も嬉しかったこと、本当に嬉しくて僕は涙を流していたが、加那子は嬉しさと出産の疲労でぐったりとしていたこと、この世にこんなに美しい存在があるのだと知らされたこと……。

 それでも今、そのときの気持ちは少し冷めてきて、変わらず裕美のことは可愛いけれども、加那子のノイローゼが僕たちに緊張を生じさせている。これは乗り越えなきゃいけないんだろうな、と僕は思う。僕も僕で仕事の残業が多く、加那子にかなり負担をかけてしまっているのは事実なのだ。もっと早く家に帰り、もっと育児に積極的に関わっていかなければ、と僕は思う。

 産まれたばかりの頃の裕美は、きっちり三時間おきに目を覚ましてこの世の終わりが訪れたような泣き声で空腹を訴えていたけれど、今は少しずつそれも収まってきて、間隔が延びてきている。たまにいびきすら掻いている裕美を隣に感じながら、僕はゆっくりを夜が明けていくのを待っている。

 僕は小さく呟く。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……」

 やはり僕は思う。この言葉は誰にでもなく、自分自身に向けられた言葉なのだ、と。加那子は明日の朝にまた悲しそうな顔で謝ってきて、自己嫌悪を深めるのかもしれない。けれども、そのときも僕は同じ言葉を繰り返し、そのたびに僕自身の確信を深めていくのだろう。

 小さく言葉を繰り返し、ささやかな祈りを新たにしながら、僕はいつの間にか眠ってしまっている。次は六時頃に裕美が起きるかどうかだ、と眠りながら僕は思う。たぶん、大丈夫だろう。